芝浜

立川談春さんの落語が無性に聴きたくて観たくて
ホームページを見ていたら
なんと今年の年末12/27に大阪で芝浜を演ることがわかった。

このためだけに日本に帰りたい衝動に駆られたけれど、そうもいかぬ。
12/19の友人の結婚式に合わせて一時帰国のスケジュールはすでに組んでいるし
2人の子どもたちは未就学児だから入れないし今回は無理。
行ける人が本当に羨ましい。興味があって行ける人がいたらぜひ、ぜひに。
芝浜を初めて聴いたのは車の中で、たぶん立川談志師匠のものだと思う。
父が時々遠出をするときに車で落語をかけた。
父は談志師匠と、古今亭志ん朝師匠が好きで、シンチョーはイイよ、最高だ。
でもダンシもイイんだよね。天才だよ。何百年にひとりっていう天才だな。
ふたりは全然違うんだけど、イイんだなぁ。
というようなことを言ってて、名前はよく聴いていたのだけれど
シンチョーというのが、どういう漢字を書くのか知ったのは
ラジオの仕事を頂いて落語家の方とお会いしたり
実際に寄席に出かけたりするようになってからのことだ。
シンチョーのチョーは、鳥だと思っていたのだ。あの爽やかな感じ。
怒っても愛嬌があって。祭りのときに股引はいて
スーパースターみたいにハチマキしてるおじちゃんみたいな色気もあって。

でもシンチョーを志ん朝て書くなんて、センスが良すぎる。
自分では思いつけない。
落語は本当に奥が深くて、馬鹿馬鹿しくて、開けっぴろげで正直で
引き出しがいっぱいあって、思いも寄らなくて、私は落語になりたい。
そういう人になりたい。
談春さんの落語、次はいつ行けるかなあ。
前回、前橋ホールでの独演会、子どもたち預けて車飛ばして行って、よかった。
幕が下りる直前に
いつも自分自身を切り売りすることでしか演れない噺家でございます
そう談春さんが話していたのを思い出す。

この独演会に一緒に行く前に
談春さんって、どんな落語家さんなの?と主人に聞かれて
迷って、私は…
”うまく説明できないんだけど
面白い話をするとか
泣ける人情話がいいとか
芸がとてつもなくうまいとか
有名だし、大人気の落語家さんなんだけど
そういうことじゃなくて
だから行きたいんじゃなくて…
談春さんの話にはいつも大きな発見があるのだという気がする。
古い話、みんなも知っている話の中に新しい発見が。
私はそれが観たくて行くんだ”と話した。

でも、その発見は言葉で話しても、分かったようで分からない。
分かるというのは、分けることだからだ。
分けたら、ほんとは分からない。
分けて切り刻んだら、そこは掘り下げず
潔く違うものとして美味しくなったほうがいい。
切り刻み顕微鏡にあててみても、形は失われる一方で陳腐になるばかりだ。
できるのは証明だけだ。やっぱりこうではなかった、という証明だけ。
それでは全容すらつかめない。
だから理屈をこねくり回して、わかることなんてできない。

味わえたらいいんだけど。

目を閉じて、五感を研ぎ澄まし、ひたすら味わい、喜び、傷つく。

でも、それは簡単なことじゃないから。
ひとりでやるには危険すぎるしね。

だからランボーに言ってしまえば永遠にわかることなんてない。

本当は人生やり直さないとアップデートできないコトだらけなんだけれども
小説や、芝居や、こういう落語は
自分ではない何かに憑依する、あるいは憑依されるときがあると思う。
そのときにちらっと見える何か。
もしかして、もしかして、本当は、こういうことだったんじゃないのかと
ちらっとよぎる何か。

自分が恥ずかしい、後悔、そして発見。私の人生だけでは見えなかった何かが
ちらっとよぎる。
談春さんの落語を観る、ということは
談春さんが見えている世界にいざなわれて、少しだけ目をお借りすることだ。
談春さんが芝浜を演る、ということは
きっとあの話の中に、古くて新しくて電気が走る何かあるんだと思う。

でも談春さんのを観ないと聴かないとわからない何かが。
談志師匠の十八番だった芝浜。
談志師匠から、俺よりうめえんじゃないの、コイツ、と言わしめた演目。
観てよろけたい。足元をすくわれて、喜びたい。
行きたいなあ。
Ai
インタビュアー、ブックコンシェルジュとしてラジオ出演、本、アート、グリーフケアに関する執筆活動をおこなう。2013年から東南アジアを中心とした海外と日本を行き来する生活に。日ごとパワーを増す息子たちとの海外生活に奮闘しつつ、だからこそ改めてこんな風に書くことができる歓びを感じる日々。