今日はいくらかマシ。体調、ぼちぼち。

ここはシンガポールだというのに、私はコートを着て
もこもこの靴下をはき、これでもかというくらいに鼻をかんでいる。

これは風邪なのかなんなのか。

咳も止まらないし、咳をするとアオガエルのような痰が出て
いちいちびっくりだ。

カモミールティーってこんなに美味しかったっけ。

この数日間は寝たり起きたり、ほとんど外に出られない日が続き
昨日強制的に外に出て、仕事というよりはお手伝いをほんの少しやって
ぜえハァ言いながら帰ってきた。

今日はいくらかマシ。体調、ぼちぼち。

読みたい本があるのになかなか読めないでいるから
こうした時間ができるのはとても嬉しくて幸せ。

人と過ごす時間もとてもいいものだし、家族との時間もとても大切だけれども
周りのほとんどの人が私のことを何も知らなくて
でも程度にざわざわしていて、好きな音楽を聴きながら、ただ本を読む。

ここまでをいつまでに読まなくちゃいけない、という期限もないから
さっきのページに出てきた知らない名前を調べたり
調べた後にかなり遠くまで出かけていってもいい。

そういう時間を一週間に一度でいいから持てたら
私はちゃんと調律できる気がするし、願わくば
毎日そういう時間を少しずつでも持ちながら生きていけたら
本当はすごくいいと思う。

トコトコ走ってばかりいると、今あるものにしか目を向けられなくて
ここに無いもの、あるはずなのに無いものが見えなくなってしまう。

なにかの不在。私はそれをいつも感じていたいし
感じられる心の状態にありたい。

さて、書くことの幸せも堪能しつつ、本に戻ろう。

芝浜

立川談春さんの落語が無性に聴きたくて観たくて
ホームページを見ていたら
なんと今年の年末12/27に大阪で芝浜を演ることがわかった。

このためだけに日本に帰りたい衝動に駆られたけれど、そうもいかぬ。
12/19の友人の結婚式に合わせて一時帰国のスケジュールはすでに組んでいるし
2人の子どもたちは未就学児だから入れないし今回は無理。
行ける人が本当に羨ましい。興味があって行ける人がいたらぜひ、ぜひに。
芝浜を初めて聴いたのは車の中で、たぶん立川談志師匠のものだと思う。
父が時々遠出をするときに車で落語をかけた。
父は談志師匠と、古今亭志ん朝師匠が好きで、シンチョーはイイよ、最高だ。
でもダンシもイイんだよね。天才だよ。何百年にひとりっていう天才だな。
ふたりは全然違うんだけど、イイんだなぁ。
というようなことを言ってて、名前はよく聴いていたのだけれど
シンチョーというのが、どういう漢字を書くのか知ったのは
ラジオの仕事を頂いて落語家の方とお会いしたり
実際に寄席に出かけたりするようになってからのことだ。
シンチョーのチョーは、鳥だと思っていたのだ。あの爽やかな感じ。
怒っても愛嬌があって。祭りのときに股引はいて
スーパースターみたいにハチマキしてるおじちゃんみたいな色気もあって。

でもシンチョーを志ん朝て書くなんて、センスが良すぎる。
自分では思いつけない。
落語は本当に奥が深くて、馬鹿馬鹿しくて、開けっぴろげで正直で
引き出しがいっぱいあって、思いも寄らなくて、私は落語になりたい。
そういう人になりたい。
談春さんの落語、次はいつ行けるかなあ。
前回、前橋ホールでの独演会、子どもたち預けて車飛ばして行って、よかった。
幕が下りる直前に
いつも自分自身を切り売りすることでしか演れない噺家でございます
そう談春さんが話していたのを思い出す。

この独演会に一緒に行く前に
談春さんって、どんな落語家さんなの?と主人に聞かれて
迷って、私は…
”うまく説明できないんだけど
面白い話をするとか
泣ける人情話がいいとか
芸がとてつもなくうまいとか
有名だし、大人気の落語家さんなんだけど
そういうことじゃなくて
だから行きたいんじゃなくて…
談春さんの話にはいつも大きな発見があるのだという気がする。
古い話、みんなも知っている話の中に新しい発見が。
私はそれが観たくて行くんだ”と話した。

でも、その発見は言葉で話しても、分かったようで分からない。
分かるというのは、分けることだからだ。
分けたら、ほんとは分からない。
分けて切り刻んだら、そこは掘り下げず
潔く違うものとして美味しくなったほうがいい。
切り刻み顕微鏡にあててみても、形は失われる一方で陳腐になるばかりだ。
できるのは証明だけだ。やっぱりこうではなかった、という証明だけ。
それでは全容すらつかめない。
だから理屈をこねくり回して、わかることなんてできない。

味わえたらいいんだけど。

目を閉じて、五感を研ぎ澄まし、ひたすら味わい、喜び、傷つく。

でも、それは簡単なことじゃないから。
ひとりでやるには危険すぎるしね。

だからランボーに言ってしまえば永遠にわかることなんてない。

本当は人生やり直さないとアップデートできないコトだらけなんだけれども
小説や、芝居や、こういう落語は
自分ではない何かに憑依する、あるいは憑依されるときがあると思う。
そのときにちらっと見える何か。
もしかして、もしかして、本当は、こういうことだったんじゃないのかと
ちらっとよぎる何か。

自分が恥ずかしい、後悔、そして発見。私の人生だけでは見えなかった何かが
ちらっとよぎる。
談春さんの落語を観る、ということは
談春さんが見えている世界にいざなわれて、少しだけ目をお借りすることだ。
談春さんが芝浜を演る、ということは
きっとあの話の中に、古くて新しくて電気が走る何かあるんだと思う。

でも談春さんのを観ないと聴かないとわからない何かが。
談志師匠の十八番だった芝浜。
談志師匠から、俺よりうめえんじゃないの、コイツ、と言わしめた演目。
観てよろけたい。足元をすくわれて、喜びたい。
行きたいなあ。

Puff,the Magic Dragon

息子がこの本を学校の図書館で借りてきた。

http://www.amazon.com/Puff-Magic-Dragon-Peter-Yarrow/dp/1454901144

ずいぶんポエジーな本だと思い、もしや有名な何かなのかしらと調べてみたら。
この曲は知っている。この曲名も内容も知らなかったけれど、このメロディーはよく知っている。
ちょっと物悲しいメロディーとドラゴン。4歳の、そして1歳の息子も一緒に口ずさむ。幸せ。

 

子どもたちの未来に

子どもたちが大人になったとき
こういうことが身についていますように。

新しいことを学ぶ喜びと、じぶんで学ぶ力。
楽しい時に存分に楽しめて、辛い時に踏ん張れる頑強な体。
全然違う人とでも、つながることができる精神の自由と言語的なスキル。
視点を変えて世界を見ることができる賢さ。
大切な誰かのために何かをする喜び、人の役に立ちたいと思う情熱。

母である私も、学び続ける決意とともに。

途中が好き

途中、というのが好きだ。
英語だとprocessという言葉になるのだろうか。

嫌いなのは「それで結果的にどうなったの?」という話で
結果だけ聞いて、ああ、そういうことなんだと
わかったようなことを言われると少し悲しくなる。

たとえばね、少々汚い話で恐縮なんだけれど
上の息子がトイレトレーニングを始めた時のこと。

おしっこは出そうか出そうでないか、意識できるのだけれど
大きい方はどうしても、先に来てしまう。

認識よりも先にやってきてしまう。

怒ってみても、嘆いてみても、来てしまうんだから、どうしようもない。

トイレに彼の大好きなジャングルの草原のポスターを貼り
大きいのがトイレで出たら動物のシールを
出血大サービスで3個貼って良い!(ちなみにおしっこは1個)

というキャンペーンもしてみたが、あまり効果はない。
地道に1個ずつシールは増えていくばかり。

そこで、はたと気がついたのだ。

今思えば当たり前のことなんだけれど
来ちゃう前のなんとなくムズムズするときを
彼はまだ知らないのだ、ということを。

大きいのがおなかの中でつくられて
外に出るまでの
後半戦を意識できていないのだということに気がついたのだ。

母である私は、その後半戦を伴走することにした。

ご飯を食べた後、おなかに手をあてて

「こびとさんが今、〜くんのおなかの中で一生懸命働いてくれています。
こびとさんにアリガトウ!」

「こびとさんが〜くんの○○チをつくってくれてるところです。
そろそろ下におりてくるかなー?」

ここからトイレに座って、今度は楽しい話をする。

息子が『三匹やぎのがらがらどん』という本が好きだから
私がこの話の中に出てくる恐ろしいトロールになってお話をする。

とにかく、とにかくトイレに座ったままにさせておく。

しばらくすると、うーんと力み出して、放出完了
となるのだけれど…。

大切なのは「うーん」となってから、ではなく
その前の、言葉にならない、いつ始まったのかすら定かではなく
あやしいなあ、そろそろかなあというところを、認識できるか
ということだと思う。

息子はそれから必ず「あっ!○○ち!」と言えるようになった。

私はここで、別にトイレトレーニングをどうやったら成功させられるか
という話をしたいのではない。

もっと言うと、私はあんまりうまくいかなかったほうだと思う。
とても焦っていたし、かなり怒鳴ってしまって
あのときは息子に申し訳なかったと思っている。

でも、話したかったのはそこではなくて
この「あっ!」のところまで
こういう、途中のところが好きだ、という話なのです。

本当においしい料理が出てきた時
間違いなく作り手が心地よい疲労感で満たされている感じ。

ここのパスタは美味しい。シェフが〜で学んだ人なんだってね。

こういうのは情報だから、すごく助かることも多いし
別にこれはこれで大切なのだけれど、情報だけ話していてもなかなか近づけない。
相手にも、そして私自身にも。

これから生きて行く上で、情報に積分できないことをどれだけ語れるか
というのが、私の挑戦なのだと思う。